エッセイ

Essei

By HIROYUKI NAGATA

一枚のコルトレーン

 親しくしていた「ライブハウス」の名づけ親、Kさんが亡くなった。彼は昔、六本木にライブハウス「ミンゴス」を開店し、数多くのジャズ・アーティストを育ててきた。10数年前に安曇野に移住。「ミンゴス」をオープンし、ジャズを基本に、地域の文化を発信していた。

 Kさんは9月12日に亡くなったが、新聞報道があったのはずいぶん後だった。私が最後に彼に会ったのは8月5日、夏の暑い昼下がりだった。彼は衰弱していた。ミンゴスでビールを飲みながら「コルトレーン」が聴きたいと頼んだ。数日前、眠れない夜にラジオから流れてきたコルトレーンの演奏。そのアルバム「コルトレーン」を聴きたいと彼に頼むと、「『コルトレーン』というタイトルのアルバムは何枚もある」と言いながら、梯子に昇り、何千枚もあるLPレコードの棚から、1枚のコルトレーンを聴かせてくれた。希望したコルトレーンとは違ったが、末期ガンのため、パンパンに膨れあがった痛い足にもかかわらず、梯子に昇ってくれた彼に感謝した。

 その日、彼は私に書きかけの原稿を見せてくれた。『ライブハウスを創った男』という題名の自叙伝だった。ざっと原稿用紙30枚分ぐらいの原稿の感想を私に求めた。

 彼は約1年前、手術不可能の末期ガンだと、自らのホームページで公開していた。それからの彼は、まことに行動的でジャズのライブを次々と企画した。最後のライブは松本ハーモニーホールでの『安曇野ジャズライブ』。日本屈指の4人のプレイヤーが演奏する予定だった。しかしその2日前に主催者の彼が亡くなったので、幻のライブになった。夏に会った時、「チケットを売ってほしい」と大量のチラシとチケットを預かっていた。幻のライブチケット、今も捨てられずに、手元に残ったままである。

物置のアウトリガー 7

私のスキー人生はたしか3年で終わってしまったと思う。高いスキーウェアを買って、自分のアウトリガーを作ってもらい購入して、たった3度の冬の物語である。しかし短期間、燃えたことは事実である。30歳を過ぎてからの青春だった。今はもう物置に眠っているだけのアウトリガー。もう何年も手にしていないが、あちこちさびているだろう。物置のアウトリガー。かけがえのない青春の忘れ物である。

物置のアウトリガー 6

スキー場で気持ち良かったこと。太陽の下、あたり一面白い大地の中で雪が冷たかったこと。スキー場に流れるBGMが気持ち良かった。あの頃は、毎年、広瀬香美が「アルペン」のコマーシャルソングを歌っていた。自分にとって「スキーイコール広瀬香美」でもある。

物置のアウトリガー 5

それからの日々は、スキーにはまった。まだ長野冬季オリンピック用のオリンピック道路が開通しておらず、時間をはずすとスキー客の車で渋滞するので、休みの早朝6時前に家を出て、栂池スキー場に通った。松川の家から1時間20分ぐらいだっただろうか。その年はたしか15回通った。自分には全く縁がないと思っていたスキーに、こんなに夢中になるなんて信じられなかった。スキーにはほとんど一人で出かけたが、そういえば寺島さんや宮坂さんともそれぞれ行ったなあ。

物置のアウトリガー 4

自分が希望した小谷村栂池スキー場に、チャンピオンともう一人のメンバーが来てくれた。恥ずかしい話だが、私は高所恐怖症でリフトが怖かった。乗り降りも苦労した。栂池スキー場にはゴンドラリフトがある。そしてアウトリガーを使ってのスキーが始まる。右足を上げて滑べろという。両手のスキーと左足のスキー。三本足スキーで、体を大きく前に倒して滑る。二人の指導者がいろいろなアドバイスをしてくれた。

物置のアウトリガー 3 

友の紹介で小賀坂スキーの部長と知り合った。障害者スキー協会を通して、アウトリガーを無償で貸してくれるという。アウトリガーとはストックの先に小さなスキー板がついているものだ。主に片足を失ったスキーヤーが使うものだが、その存在は無名に近かった。その日、私は長野市の小賀坂スキーの工場まで出かけた。そしてアウトリガーを借りてきた。数日後、我が家に一本の電話が入る。見知らぬ人だった。彼はアウトリガーを使用する障害者スキーの全日本チャンピオンだった。

物置のアウトリガー 2

生まれて初めてスキーに出かけた。場所は大町市の鹿島槍スキー場。職場の忘年会が大町温泉郷であり、宿泊した翌朝出かけた。レンタルスキーで、いざ初体験。何もできなかった。動けなかった。後日、小谷村のスキ-場でスキーのインストラクターをやっている生年月日が一緒の友人が、わざわざスキーの仕事を休んで、別のスキー場で私を熱心に指導してくれた。だが足と手にマヒがある私は、五体満足の人なら当然できる動きができない。教える方も教えられる方も努力したが、思うようにいかない。

物置のアウトリガー 1

今では物置に放置されているアウトリガーのことを書こう。今では信じられないが、私にはスキーに夢中になった過去がある。スキーをやろうとしたきっかけは、スキーウェアにある。その頃、今では鳥取に帰郷してしまった長尾氏らが中心になって、職場でメンバーを集め、オリジナルのウェアを創ろうということになった。その仲間に加わったのだ。費用は7万かかったが、赤を基調としたスキーウェアを手に入れた。

くちばしの長いピーコ 4

もう助からないかもと言われていたピーコだが、我が家に無事に生還した。だが足にマヒが残った。今までのように自由にならない足。その代わりにくちばしがどんどん伸びてきた。ピーコの強靭な生命力は世にも不思議なインコとなっていった。

くちばしの長いピーコ 3

永田ピーコは動物病院に入院した。獣医に「たとえお客が3000円で買ったインコでも、こちらは命をかけている」と言われる。その言葉だが、あまり好感を持たなかったのはなぜだろう   

くちばしの長いピーコ 2

ピーコに異変があったのは、2年前の8月10日だった。その2日ほど前、昼間、家に侵入してきた猫に襲われたらしい。何事もなかったようで安心していたが、徐々に体がむしばまれていたのだ。そして耐えられなくなった10日の夜、ぐったりとなった。家族で「もうだめだろう」と悲しく見つめていた。意外にも翌朝まで生きていた。さっそく動物病院につれていく。

くちばしの長いピーコ 1

我が家に一羽のセキセイインコがいる。名はピーコである。もう7年ほど家族と一緒に生活している。ピーコも2年前までは普通のインコだった。今はどこが普通でないか。それはくちばしの長さである。おそらく普通のインコの5倍はあるだろう。 

猫のミーの思い出 9

 

パートナーに「人間らしい歩きかたを思い出させて」逝った盲導犬クイールの本が話題になっている。 ミーはなぜあんなに車の通りの少ない道でひかれたのだろう。ひとり暮らしが長かった私。そんな私を見兼ねて出現してくれたのか、愛するミー。私が結婚して、家を去っていった時、使命を終えて静かに消えていったのか、愛するミー。 さよなら、ミー。


猫のミーの思い出  8
ミーのひかれた道は、車が あまり通らない。なぜそんな道で車にひかれたのだ。私は悲しみと共に怒りがこみあげてきた。 田中さんは続ける。「うちにミーを運んで、体の血を止めようとタオルを巻いたら、みるみるタオルが真っ赤に染まってきてーーー。でもいい顔でしたよ。永田さんによくしてもらって、きっと感謝しながら死んでいったと思います」

猫のミーの思い出 7

相変わらずミーを見かけなかった。そんな折り、隣組のSさんが50代前半の若さで亡くなったという連絡を受けた。岡谷に住みながら、住民票は松川村にある。すぐに葬儀の打ち合わせに駆けつけた。ミーの飼い主の田中さんに会う。「最近、ミーがうちに来ないんです」「永田さん、ミーね、先月死んだんです」 永田さんになかなか会えなかったから言えなかった。この道で車にひかれたんです。


猫のミーの思い出 6

 

週に一度の別荘暮らしもミーといると楽しかった。ミーは隣の家の猫なのである。ミーの好きなえさもそろえてある。ミーは煮干しの頭を必ず残した。ミーの遠慮のなさを私は愛した。 私との別居生活が長くなると、ミーは以前に比べて淡白になりつつあった。それはしかたのないことだ。毎晩、庭の片隅で私の車の帰りを待っていられたら、こちらも辛い。秋が過ぎて冬がきた。私が別荘にいてもミーを見かけなくなっていた。「きっと寒いから、本宅のこたつにでももぐっているのだろう」


猫のミーの思い出 5

 

12年間のひとり暮らしにピリオドをうち、私は岡谷に住む彼女の元に走った。8年前に自分で建てた松川村の家を出ることになった。それはミーとの別れを意味した。ミーとの小さな別れ。それは小さな別れだった。 松川の家は別荘になり、週に一度、家を管理するために帰った。夕刻、私の車が到着するそのたびに駆けつけてくれるミー。とてもうれしかった。自分が帰ってこない、あとの6日間、ミーはどんなことを思って過ごしているのだろう。わけを説明できないのが悔しかった。


猫のミーの思い出 4

当初、数日すればヨリを戻してくれると思っていたミーだが、想像以上に心の傷は深かったようだ。私とミーがあの輝いていた頃に戻るには、相当な日数が必要だった。
やがて和解してまた二人の蜜月がはじまったが、私の生活に微妙な変化が起こっていた。彼女が時々我が家に来るようになったのだ。


猫のミーの思い出 3

 

もうひとつの「事故」は、ある朝のことである。出勤しようと勢いよくドアをあけ飛び出すと、一瞬のスキをつき中に入ろうと外で待ち構えていたミーと出合い頭に衝突したのである。私の蹴りあげた左足は、ミーの顔面をとらえたのである。
その日からミーは私に寄りつかなくなった。ミーは本宅のベランダにじっといるようになった。私が餌をもって近づいても逃げていくのだ。「ミー、あれは事故なんだ」 私は同居人を失った。


猫のミーの思い出 2

 

ミーの話の続きである。毎晩、私が仕事を終えて家に帰ってくると、待ち構えていてドアを開けた瞬間に中に飛び込んでくるのだ。ひとり暮らしの自分にとって、かわいい同居人だった。だから家の決まった場所の壁やスピーカーの上ブタをひっかいて爪を磨いても許してやった。 そんなミーにも2度ほど異変があった。最初は去勢手術を受けたあと、痩せ細り元気がなく、見ていて気の毒だった。それから回復してきたが、手術前に比べて少し凶暴になってしまったのは残念だった。


猫のミーの思い出 1

まずミーのことを書く。ミーは松川村の我が家の隣の田中宅に飼われていた猫だ。何年か前、田中宅の次女によってミ-は拾われてきた。すぐにミ-は、当時ひとり暮らしをしていた自分の家にくるようになった。田中宅のもう一匹の黒猫はよそよそしい猫らしい猫だが、ミーは違った。遠慮がなかった。人の家を我が家のように散策した。とても人なつっこい猫で、私の体にいつも巻き付いてくる。いつしかミー用にえさを買ってくるようになった。